1 はじめに
ニュースによれば、北海道に住む30代の男性が、平成29年12月、北海道社会事業協会の運営する病院から社会福祉士としての採用内定を得ました。勤務開始は平成30年2月の予定でした。
男性は、HIVに感染していましたが、面接時にはそのこと伝えていませんでしたが、かつてHIVについて同病院で受診したことがありました。
平成30年1月、病院は、同意のないまま男性の過去のカルテを調べて、男性がHIVに感染していることを発見しました。病院から電話でHIVのことを問い質され、男性は突然のことで動揺してしまい、とっさに感染していないと言ってしまいました。
男性は、その後、他の医療機関から発行してもらった、「HIVに感染していても勤務に支障がない、感染の心配もない」との診断書を病院に提出しました。
しかし、病院は、男性が面接時にHIVを告知しなかったことを理由に内定を取り消しました。
男性は、病院が男性のカルテを同意のないまま見たのは違法として、病院を被告として、札幌地裁に330万円の損害賠償請求訴訟を提起しました。
これに対し、令和元年9月17日、札幌地裁は、病院が採用活動のため男性のカルテを同意のないまま見たのはプライバシーの侵害にあたるとして、病院に165万円の支払いを命じました。
男性は、内定取り消し後、別の病院に無事就職できたそうです。今回の訴訟で、内定取り消しが違法・無効であることについての確認が請求されておらず、金銭的な請求のみとなっているのはそれが理由かもしれません。
ヤフコメなどでは、判決に対して否定的な意見も多くて驚きました。
「面接時に黙っていたのだから取り消されても仕方ない」
「医療機関だからHIVの人を採用しないのは仕方ない」
といった論調です。
もちろん、私たちは裁判を傍聴した訳でもありませんからニュースで明らかにされた情報しか分かりません。裁判の詳しい内容は分かりません。
しかし、ニュースの情報だけでも、裁判所の今回の判断は適切なものだったと思います。
もしかしたらヤフコメで否定的な意見の人は、「病院がだれを採用するかは自由」「採用のために調査するのも自由」「HIVは危ない」「危なくなくても不安を感じる人がいるのだからHIVの人を採用しないのもやむを得ない」などと考えているのかもしれません。
しかし、どれも誤解や偏見があるといわざるを得ません。
今回の記事では、特に法律的な観点から、これらの考えが誤解や偏見であることを説明したいと思います。
2 企業には採用の自由があるのが原則
世の中には多くの契約があります。お店で物を買う時の売買契約、アパートを借りるときの賃貸借契約、お金を借りるときの金銭消費貸借契約。
こういった契約には、契約自由の原則が当てはまります。契約自由の原則とは、平たく言えば、契約することを誰からも強制されないというものです。
国から強制されることはありませんし、契約の相手方から強制されることはありません。契約をするのかしないのか、誰と契約するのか、どんな契約の内容とするのかといったことは誰もが自由に決めることができます。
蛇足ですが、そういう意味では、放送法64条1項に基づくNHKの受信契約は、例外的に法律により契約締結が強制されていると言えますね。
ある人が企業に採用される場合、企業との間で労働契約を締結しますが、この労働契約についても、契約自由の原則が当てはまります。これを採用する企業側から見ると、採用の自由ということとなります。
採用の自由の内容としては、誰を採用するのか企業が自由に決められるというものです。
当然、採用にあたっては、採用しようとする人についての調査が必要です。そこで、採用の自由には、その前提として採用のための調査を行う自由というものも含まれます。
3 契約自由の原則は無制限ではない
しかし、契約自由の原則は無制限ではありません。
契約自由の原則は、契約当事者が対等の立場にあることを前提としています。例えば、AとBが契約をしようとする場合、AがBに対して強い力を持っている、支配している、お金を持っている、情報を持っている場合、Bは契約するかどうかを自由に決定することができるでしょうか。おそらくできないでしょう。
それなのに、あくまでも契約自由の原則を貫いてしまうと、Aは自分に有利な場合しか契約しない、Bは自分に不利でも契約せざるを得ない事態に追い込まれてしまいます。力を持つ者はますます力を持ち、力を持たない者はますます力を失い、格差が拡大していくことになるでしょう。
こういった状況を社会的に放置することはできません。
したがって、契約当事者が対等な立場にない場合には契約自由の原則には一定の制限が加えられます。
4 採用の自由の制限
企業と労働者も対等な立場にないことはわかりやすいと思います。
一般的には企業が有利な立場にあります。例えば、トヨタ、NTT、ソフトバンクといった大企業と一人の労働者が対等な立場でないことは明らかでしょう。
それなのに企業の採用の自由を徹底してしまう。そうすると、「女性」「障害者」という理由で採用してもらえなかったり。採用されたとしても非常に不利な条件だったり。
雇われる側は何とか仕事を見つけたいから、それでも応じてしまうかもしれません。そうすると、結果として、社会に差別がはびこることになりかねません。
そこで、性別(男女雇用機会均等法7条)、障害(障害者雇用促進法34条)を理由とした募集・採用の差別を禁止しています。
5 調査の自由の制限
同様のことは、採用に伴って行われる調査についても当てはまります。
採用のためだからということで何を調査してもいいのか。仕事と関係あるとは思えない、プライベートなことまで答えないといけないのか。出自や病気など、できれば誰にも知られたくない秘密まで答えないといけないのか。答えないと、調査ができなかったとして不採用になっても諦めるしかないのか。
このように企業の調査の自由を徹底すると、労働者のプライバシーが侵害されることになりかねません。
そこで、厚生労働省では、企業は、労働者について、①人種、民族、社会的身分、門地、本籍、出生地そのた社会的差別の原因となる事項、②思想、信条、信仰、③労働組合への加入、④医療上の個人情報を収集してはならないと示しています。
6 HIV感染の調査はできるのか
今回の北海道の事件では、男性は、採用面接時、病院に対し、HIVに感染していることは告げませんでした。
その後、病院は、男性の同意のないままカルテを調べて、男性がHIVに感染していることを発見しました。病院は、これに基づいて、男性に対し、HIVの感染について問い質しましたが、男性は否定しました。
病院は、男性が面接時にHIVを告知しなかったことを理由に内定を取り消しました。
これら一連の経緯は、これまで述べてきた採用のための調査ということになります。
それでは、採用のための調査として、男性のHIVの感染を調査することは許されるのか。裁判所が今回の判決で採用した判断枠組みは分かりません。しかし、過去には参考になる裁判例があります。
警視庁が、警察官の採用時の精密身体検査の一環として、採用された男性から同意を得ないまま、HIV抗体検査を行いました。
検査の結果、陽性であることが判明し、警視庁が男性に対し辞職を勧奨し、これを受け、男性が辞職しました。
男性は、警視庁が同意のないままHIV抗体検査を行ったことが違法であることなどを理由に損賠法請求訴訟を提起しました。
この事件で裁判所は次のように判断しました。
個人がHIVに感染しているという事実は、一般人の感受性を基準として、他者に知られたくない私的事柄に属するものといえ、人権保護の見地から、本人の意思に反してその情報を取得することは、原則として、個人のプライバシーを侵害する違法な行為というべきである。
採用時におけるHIV抗体検査は、その目的ないし必要性という観点から、これを実施することに客観的かつ合理的な必要性が認められ、かつ検査を受ける者本人の承諾がある場合に限り、正当な行為として違法性が阻却されるというべきである。
ここで、違法性が阻却されるというのは、原則的には違法な行為ですが、正当な理由がある場合には違法でなくなるという意味です。
そして、本件では、本人の同意がないこと、検査実施の客観的・合理的必要性も認められないことから、違法とされました。
今回の北海道の事件では、病院は、男性が面接時にHIVを告知しなかったことを理由に内定を取り消しました。つまり、病院は、男性に対して、本人の意思に反して、HIVを告知することを強制しています。また、男性の同意のないままカルテを調査して、男性がHIVに感染していることを発見しています。
したがって、病院は、男性の意思に反してHIVに関する情報を取得していますから、男性のプライバシーを侵害する違法な行為ということになります。
それでは、病院に、男性のHIVに関する情報を取得する客観的・合理的必要性はあるでしょうか。
この点については、今回の北海道の事件の判決の内容が分からないのでなんとも言えませんが、少なくとも裁判所は、男性が病院で働くことで他者へHIVが感染する危険性は無視できるほど小さかった、病院が男性にHIV感染の有無を確認することは、本来許されないものだったと指摘しているようです。
したがって、男性のHIVに関する情報を取得する客観的かつ合理的必要性はなかった、つまり情報を取得する正当な理由はないので違法と判断しているのでしょう。
男性は、別の医療機関から「職場で感染の心配がない」という診断書をもらい、病院に提出したそうです。HIVは感染力が弱く、性行為以外の日常生活で感染する可能性はまずないと言われています。
また、男性が採用予定であった社会福祉士の仕事は、福祉に関する相談に応じ、助言、指導、関係者との連絡及び調整その他の援助を行うことが仕事内容です。仕事内容からも、感染する可能性はまずなかったものと考えられます。
参考:エイズ予防情報ネット
7 内定取消はできるのか
内定とは何か、内定取消ができるのかについては、以下の記事を参照してください。
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最高裁判所は内定取消しについて次のとおり判断しています。
企業の留保解約権に基づく大学卒業予定者の採用内定の取消事由は、採用内定当時知ることができず、また、知ることが期待できないような事実であつて、これを理由として採用内定を取り消すことが解約権留保の趣旨、目的に照らして客観的に合理的と認められ、社会通念上相当として是認することができるものに限られる
つまり、内定取消しには、客観的に合理的と認められ社会通念上相当な理由が必要です。
これまで述べてきたとおり、今回の北海道の事件では、採用時に男性のHIV感染について調査することには、客観的かつ合理的必要性はなかったと言えます。
したがって、男性が面接時にHIVを告知しなかったことを理由に内定を取り消すことも、客観的に合理的と認められ社会通念上相当とは到底言えず、違法となるでしょう。
8 個人情報保護法による利用制限
今回の北海道の事件では、病院は、男性の同意を得ることなく、過去に男性が病院で受診した時のカルテを調査して、男性がHIVに感染していることを発見しています。
カルテは、男性の治療に利用するために作成されたものです。そのカルテを、今回、病院は、男性の職員としての採用活動のために利用しています。
個人情報保護法16条では、個人情報の利用目的を変更するためには、あらかじめ本人の同意が必要とされています。
(利用目的による制限)
第十六条 個人情報取扱事業者は、あらかじめ本人の同意を得ないで、前条の規定により特定された利用目的の達成に必要な範囲を超えて、個人情報を取り扱ってはならない。
カルテに記載されている内容は個人情報に該当します。そしてカルテに記載された個人情報の利用目的は男性の治療です。今回、その個人情報を男性の職員としての採用活動のために利用したのです。
したがって、利用目的の変更になりますから、利用前にあらかじめ男性の同意が必要です。しかし、今回、男性の同意のないまま、カルテを調べて、男性がHIVに感染していることを発見しています。
したがって、今回の病院のカルテの利用は、個人情報保護法16条1項に違反しています。
個人情報保護法16条1項の目的は、言うまでもなく個人のプライバシー保護です。したがって、医療情報を目的外の採用活動に使うことはプライバシーの侵害とする今回の判決は適切なものだと思います。